2008年12月25日木曜日

Happy Holidays from Snowy Seattle.


このスライドショーはslide.comで私の写真で作りました。

2008年12月19日金曜日

シアトルで雪

昨日の12月18日にシアトルでは珍しい雪が降って真っ白な雪があっという間に積もって、シアトルの学校は休校になりました。子供たちは大喜びで雪すべりをしたり、雪合戦をして遊んでいました。シアトルは急な坂が多いので、あちらこちらで車が滑って事故がおきたというニュースがありました。チェインをしたバスも坂が上れなくて止まってしまって、多くのバスも運休しました。うちの夫の職場は幸い歩いていける距離なので雪靴と分厚いコートと帽子をかぶって職場に行きました。クリスマス前の忙しいはずの商店街もお客さんがいないので早く閉店したそうです。

私の一日はドーンという大きな雷の音で朝5時前に起きて雪が降っているのにびっくりしてはじまりました。それから稲妻と車の警報で寝ることもできずに珍しく早起きしました。こんな大雪の日はシアトルではめったに無いので、しっかり厚着をして、まだ足跡も何も無い真っ白な雪道を歩いて写真やビデオを撮りました。それから、今日一日の雪の様子を以前近所に住んでいたイギリス人の夫婦と友人に見せてあげようと時間を変えてうちからビデオ録画して編集してYouTube に入れました。日本でもこんなに今年は寒いのでしょうか。こういう雪を体験すると、地球温暖化というのは、本当なのかしらと思ってしまいます。地球の他の地域では温度が上がっているのかもしれませんが、シアトルの温度は上がったり下がったりと年によって変わるようです。

2008年12月10日水曜日

日本でThanksgiving(感謝をあげる日)はあるのでしょうか


アメリカの(Thanksgiving day)感謝祭のことについて書こうと思いながら、日本でも似たような日があるか調べたりしていたら今になってしまいました。私の家族は向かいに住む家族と合同で料理を持ち寄って感謝祭の食事をしました。アメリカの感謝祭は収穫を祝うもので、食べ物だけではなく周りの人にも感謝を示す日で、本当に感謝(Thanks)をあげる(give)日です。あるレストランはホームレスの人たちに無料で感謝祭の夕食を支給したという話もラジオで聞きました。日本ではこんな祝日は思い当たりません。月見は収穫を祝うものでしょうが、他の人には感謝などしないでしょう。
この時季はアメリカでは、いろんな慈善(チャリティー)の行事があります。ベークセールで自家製のケーキやクッキーを売った収入を貧しい家族にあげたり、缶詰めの食べ物を職場へ持っていって集めて慈善団体に寄付したり、クリスマスプレゼントを集めて、プレゼントを買う余裕のない家族に届けたりというものなどです。今年は不景気で寄付が減って、貧しくなった家庭が多いということもききますが、それでも夫の職場のベークセールや寄付金集めの食事会に参加しました。
お金が無い暮らしをするなら日本よりシアトルの方がいいと思います。浮浪者になるならここの方が住みやすいでしょう。たとえ、冬は凍死しないように、温度が下がった夕方はボランティアが車で浮浪者を積んで保護施設へ連れて行ってくれます。シアトルのダウンタウンの近郊にはUrban Rest Stopという無料のシャワーと洗濯と乾燥機を使用できる施設もあって、自分の着ている服を洗濯している間はバスローブなども借りられるそうです。浮浪者でも清潔でいることもシアトルでは可能です。女性の浮浪者のための保護施設などもあるようです。アメリカの人は心が広いというか暖かいというか、関心します。

2008年11月11日火曜日

選挙選、メルティングポット、Obamaの母とシアトル

いくつかの質問が前のブログにあってコメントでは長くなるので、ここに書くことにします。
アメリカの選挙権があるかとの質問ですが、私は日本人でアメリカ人になっていないので、アメリカの選挙権はありません。それから選挙所の仕事はお金がもらえます。今回はいくらもらえるかわかりませんが、100ドルくらいはもらえると思います。16時間働かないとならないので自給としては最低ですが、いいこずかいになります。4-5年前くらいまでは、全部ボランティアだったそうです。日本でもお金はもらえるようです。妹が広島の田舎の町で手伝ってお金をもらったと言っていました。日本は市や町の職員が主に選挙の手伝いをして時間外手当をもらっているのではないかと思います。以前福岡の友人がある市の職員でしたが、選挙の日は働らいていました。
オバマは白人と黒人の混血で、夫にこの混血の人のことをなんと英語でいうのか尋ねるとmulattoというそうです。彼の妻も子供も黒人なので、白人よりも黒人の文化や生活の中に入っているだろうといっていました。こちらに来て確かに人種がいろいろ混じっているといっても、同じ人種同士で集まっていたり、親しくなるのは同じ人種が多いです。私も確かにアジア系の人と話すほうが、親近感があって直ぐ親しくなれます。学校でも、昼食は白人のテーブル、黒人のテーブル、アジア人のテーブルと分かれて座ると子供がいっていました。うちの子はアジア系の子供と良く仲良くなるようですが、白人の友人もいます。プライベートなアクティビティーは同じ人種の人があつまってあることが多いです。私が行くパーティーはアジア系の人も少なくほとんど白人ばかりです。うちの夫の会社はいろんな人が働いていますが、今までいろんなところで働いて今回やっと黒人の同僚と昼食を一緒に食べたりするような友人ができたと言っていました。私は仕事をしていたときは結構アジア系、白人、黒人といろんな同僚と昼食を食べたり、散歩をしたりと親しくしていましたが、いまでも少し交流のあるのは白人の同じくらいの女性で会社では重役でしたが、彼女も今は仕事をせずに主婦と2人ティーンエージャーの子育てをしています。後は近所の奥さん連中の友人です
ところでObamaは祖父母にハワイで育てられたということですが、白人お母さん(Stanley Ann Dunham)は、シアトルのミドルスクールに一年行ったあととなりの町のMercer Island(地図:のアパートで4年暮らして高校を卒業したそうです。とても興味深いObamaのお母さんの話がシアトルタイムズに書いてありましたので、読んでください。(シアトルタイムズ) Mercer Islandはうちのメールボックスがあってスーパーマーケットに買い物に行く場所です。この記事を読んでとてもObama のお母さんに親近感を感じました。

2008年11月6日木曜日

大統領選の日




まだ、夜が明けていない雨降りの朝6時に選挙所(Our Lady of Mount Virgin school)
 の手伝いに約10分歩いて行きました。今回の責任者は前回とは違って40代の白人の女性で今回が初めてとは思えないくらい能率的に選挙所を運営しました。今回の選挙所職員の構成は、20代の中国系の男性(中国語の通訳ができます)3人の黒人の女子高校生(17歳で投票は出来ませんが投票所では働けます。)、依然と同じ人々(黒人女性2人、白人女性1人と私)、新しい白人女性(50代)というもので、次回よりも3人多いものでした。
選挙開始の準備をしていると、6:30amに投票に来た人がいましたが、7:00amまで投票所は開けられないので、この男性は外で30分待ってもらいました。うちの夫の話によると、友人夫妻が近所の中学校の投票所に6:30amに行ったところ、投票を待つ人の長い列がすでに出来ていたいうことでした。私の手伝った場所は前回は閑古鳥が鳴いているようなところでしたが、今回は7時になると、長い列が入り口まで出来ました。普段は混雑していない道路が選挙に行く人の車で混雑していたという話も聞きました。選挙所を手伝いに来たのは4度目ですが、こんなに忙しかったのは初めてです。7つのプライベートブース(仕切りのある机)が設定してありましたが、これは全部使用されていて、予備の机も投票用紙をマークする人で占められていました。18歳になったばかりの新米投票者だけではなく、年配の人も含めて今回初めて投票をしに来たという声を何度も聞きました。今回私の受け持ちの選挙区では67人投票しました。前回は15人くらいだったのに比べると、4倍以上でした。私の隣の女性の選挙区の帳簿は私の二倍の厚さでしたが、彼女の選挙区では約145人でした。後2つの選挙区と条件付(provisional)の投票者を含めると350人くらいがここに投票しに来たことになります。
以前の選挙と違っていたのはオブザーバーが選挙所にずっといたことです。うちの夫が投票に行く小学校ではいつもオブザーバーがいると行っていました。このオブザーバーは選挙所で不正な行為が行われていないか、監視するとのことです。私が手伝った場所では2人のオブザーバーは選挙所が開いてから閉まるまでずっと選挙所を見守っていました。一人のオブザーバーは選挙が終わってから、帳簿から何人投票したか、いくつ注意書き(incident Reports)が記録されているか等も調べていました。
投票所が閉まる8:00pm少し前に同僚の女性がもうOBAMAが勝利の宣言をしたという電話を娘からもらったと言っていました。アメリカは地域によって時差があるので、州によってはもう投票は終わって、票は数え始められていて、OBAMAに入れられた数が圧倒的に多くワシントン州や他を入れなくても、すでにOBAMAの勝利は確定したと聞きました。投票所を8:00pmちょうどに閉めた後、あとかた付けをしました。投票者の数が多かったので帳簿の数と票読取り機の数が合わなくて遅くなるのを予期していましたが、結構全部スムーズにいって10:00pmくらいに仕事を終えて帰宅しました。
選挙所を手伝う仕事はいろんな人に出会えて、選挙のプロセスに貢献できるので私にとっては楽しいものでした。シアトルで投票所である選挙は今回が最後のなので、とても残念です。次回からは、郵送で全部投票はおこなわれるそうです。大統領選をシアトルの選挙所の職員として体験できたのは幸運でした。

2008年11月3日月曜日

Halloween (ハロウィーン)






ハロウィーンは10月31日金曜日でした。ミドルスクールでも、仮装のコンテストがあって近所の男の子が特別賞をもらったと息子が言っていました。職場で仮装している大人もいるようです。夫の職場でも結構いろんな人が髪を染めたり色とりどりの衣装を着て誰か見分けがつかなかった同僚もいたと言っていました。今年は副大統領候補のペイレン氏の仮装が人気があるようでした。
ハロウィーンの直前はチョコレートやキャンディーの安売りと仮装の服と仮面等があちらこちらで売られています。最初の2枚は下の息子がカボチャで作った顔にろうそくで火をともしたものです。それと息子の面白い顔の仮装で、イギリスの紳士だと言っていました。先週末の夕方住宅街を運転していたらあちらこちらでハロウィーンの飾り付けやカボチャを家の前においてあったのでその写真もここに載せました。
ところで、パンプキンブレッドのレシピは食べ物のブログに入れましたので試してみてください。

2008年10月23日木曜日

アメリカはカボチャの季節?


日本ではカボチャは煮物にしたりてんぷらにして食べるだけですが、こちらではこの時季は、ハロウィンが月末にあるので、大きいカボチャを買ってきて、中の種を取って、ナイフで怖い顔のジャックランタンを作ります。先終末、下の息子と近郊にU-pickでカボチャを取りに行きました。
U-pickというのはyou pickから来たもので、来た人たちが自分でカボチャの畑に行って好きなカボチャを選んで採って来てそれを買うというものです。日本ではみかん狩りがそうです。こちらではイチゴや、ブルーベリー、ラズベリーなどもU-pickできます。
カボチャと言っても日本のように小さいものではなく大きさを競うくらいで、とても大きくて重いもので、手押し一輪車を借りて運びます。みんな1つとは言わず2~3のカボチャを買って帰ります。私たちが行ったところは、駐車場がいっぱいで入れなかったので、仕方なく近くの農家でもう取れて売っているものを2つ買って帰ってきました。値段は二つで9ドル50セントでした。 
このカボチャは食用ではなく、ハロウィンのうちのドアの前に飾るものです。芸術的な腕を発揮していろんなランタンを作れて、またユニークなデザインの他のランタンを見るのが楽しみです。写真のカボチャの真ん中にあるのは750mlのワインのビンです。

2008年10月10日金曜日

金曜日はジェイクとメキシカンドミノ


うちでは毎週金曜日に近所に依然住んでいて知り合いになった、一人暮らしの日系2世の88歳のジェイクおじいさんを夕食に招きます。夕食後、大人だけで、メキシカンドミノをします。ジェイクはアルツハイマーを長く患っていた日系2世の奥さんの世話をしながら、2軒隣に40年くらい住んでいました。その奥さんが1年半前に亡くなられて、子供がなく、寂しそうなので、たまに夕食に招いていました。ダニエルはジェイクの家を片付ける手伝いをしたりして、ジェイクとももっと親しくなって毎週金曜日の週一度ジェイクとの夕食になりました。ジェイクは一年前に、家を売って老人専用のアパートに引っ越しましたが、その後も、夕方、ダニエルがアパートまでジェイクを迎えに行ってから、私が日本食の夕食を作って、ジェイクとうちの家族全員で食べた後、メキシカンドミノをします。メキシカンドミノのルールの説明は長くなるのでしませんが、2人から10人くらいで遊べて、お金をかけて遊ぶ人もいるそうです。ハリウッドの有名人の間にも人気があると誰かいっていました。このゲームは、負けた人は残った手持ちの札にある数を加算するので頭の体操にもなります。ジェイクは耳が遠く、目も悪くなって、足腰も弱ってきているようですが、頭のほうはしっかりしていて、ゲームには頻繁に勝ちます。
最近、お客さんを夕食に招くのは金曜日で、来た人はジェイクと一緒にメキシカンドミノをするのが条件になっています。これまでいろんな友人や近所の人たちが参加しましたが、みんな「楽しかった。招いてくれてありがとう。」と感謝されます。私も結構このゲームは好きですが、頻繁に負けるのは私です。
日本から渡米してメキシカンドミノをした経験談がメキシカンドミノを検索するといくつかあって、どれも楽しかったとかいてありました。日本でもメキシカンドミノを買って遊ぶ人はいるのでしょうか。
最後に少し退屈なビデオですが、メキシカンドミノの遊び方のビデオをYoutubeで見つけましたので、興味があればみてください。
リンクは、Mexican Train game video 。

2008年9月25日木曜日

体育館で凧のダンスコンテスト

先終末、友人から電話で、Whidbey Islandで凧揚げ大会(Kite festival)があるから一緒に会って行こうと誘われました。特に彼女は高等学校の体育館の中で行われる、屋内凧揚げに興味があると聞きました。公園での凧揚げ大会には行ったことはありますが、室内で凧揚げとは聞いたことが無いので、本当に凧が室内で上げられるのかしらと一緒に行ってみました。凧揚げの屋内コンテストは7:30に始りました。練習を少し見てから、確かに凧が室内で上げられていました。凧を華麗に音楽に合わせて操ってまるでダンスのコンテストのようでした。友人はまだ修行中でコンテストには出ませんでしたが、コンテストの後、彼女の凧を少し試させてもらいましたが、糸が2つあって、両手でのコントロールが難しく、大会の出演者がやっているように簡単に安定してあげることは出来ませんでした。
年配の方が多く、これは人によっては、運動にもなるしいい趣味かもしれません。
下のビデオをこの会場で取ったので見てください。たくさんビデオを録画したのでPart2とFinalもYouTubeに投稿する予定です。



屋内凧揚げのリンク
http://www.oregoncoast.org/kite-festival/indoor-kite-2007.php
http://www.indoorkiteflying.com/

2008年9月4日木曜日

シアトルで選挙所の仕事


8月19日の選挙の際、近所にある選挙所を手伝う仕事をしました。これで、3回目になります。いつも思うことですが、アメリカは変な国です。アメリカ人でなくてもこの国で働く権利があるものなら誰でも選挙所を手伝うことができるんです。投票のパンフレットで募集しているのを見て電話したら私でも出来ることがわかって、お金ももらえるし、いろんなことに興味のある私はやってみたのが最初でした。失敗や間違いが無いように、選挙の前に3時間のトレーニングのクラスを受けなければなりませんでした。ここで仕事の内容を詳しく教わりました。ほとんど同じ内容で3回めの今回は退屈でしたが、6時に選挙所に行って、7時から始まる選挙の準備から始まり、機械の設定の仕方、帳簿の付け方、注意事項、選挙が終わってからすることなどをクラスで教わりました。
夫の投票所は少し遠い小学校にですが、わたしが働いた投票所は家から歩いて12分のところで、朝歩いて行って、1時間の昼休みも歩いてうちに帰って、夏休みで家にいる息子たちと急いで昼ごはんを食べてからまた歩いて帰ってきました。
この選挙所は4つの選挙区が入っていました。前回、手伝った時は、数えるほどの人しか投票に来ませんでした。ほとんどの人は郵便で投票したのかも知れません。暇で、一緒に手伝っていた人と話たり本を読んだりしていました。新聞や政治や政党に関連した読み物や、コンピュータの使用は出来ないので、料理の本と数独を持っていきました。この選挙所は、年配で60歳くらいの黒人の選挙場管理人の女性と、3人の30代、40代、60代の黒人の女性と、一人の50代の白人の女性、中国人の20代の女性、そして私という構成でした。このうち選挙管理人の女性を含めて、3人の黒人の女性は前回も一緒に手伝いました。朝6時に来て夕方9時くらいまでという長い一日でした。前回は一つの選挙区の投票者の受付をしましたが、今回は少し手間のかかる、条件付の投票者の記録と投票用紙の受け渡しをしました。条件付というのは、郵便投票にしたが、気が変わって投票所にくることにした人や、他の選挙区から来た人、今回初めて投票する人などで、名前と住所を手書き、サインしてもらった後、再度名前をこちらで書いて投票用紙と封筒を渡すという仕事をしました。他の投票用紙は機械で結果を数えられますが、条件付の場合は、一人が二回投票するのを防ぐため、手作業で数えると聞きました。今回は前回より少し投票者の数は多かったようですが、それでも時間をもてあましていました。8時に投票所に鍵を掛けてから、帳簿付けや機械の終了処理等の後片付けをしてやっと9時半に投票所から出ました。その後、自動車で来なかったので、投票用紙や帳簿、機械等を選挙所管理人の女性の車で運搬する際の付き添いの係りに選ばれました。車で10分の小学校に着くとそこで待っていた人たちが青と黒のかばんに入ったすべての選挙で使用した物を車から運び出して行きました。それから家まで送ってもらって家に着いたのは10時くらいでした。投票所で、15年くらい前に一緒に近所の集会等に言っていた女性が投票しに来ていて歳をとって物覚えが悪くなってしまっていたのと、今まで会う機会が無かった、うちの借家人が赤ん坊を連れて投票に来た報告をしながら、夫とおそい夕飯を食べました。

2008年8月15日金曜日

妹の結婚式




東京の結婚式の写真へのリンク
この話題はシアトルではなく、日本に帰ってのことですが、とりあえず、ここに書くことにしました。
妹がずっと前に仕事で知り合った旧同僚だった人と再会して、結婚することになりました。彼女は初婚、相手は再婚。人生のパートナーとシアトルで会って、息子2人と幸せに暮らしている私は、
妹がずっと独身で寂しく年老いていくことを心配していました。彼女が両親と同居して手伝いがいるときはいつでも頼りになっていたので、いつも結婚しろとは言っていたものの両親は寂しくなりました。
妹はシアトルは遠くても、2人目が生まれたときや、私が病院に入院したりしたときにははるばる来て手伝ってくれました。そのときは独身で定職についてなかったとはいえ、時間を割いて飛行機で10時間もかけてきて家のことをしてくれた彼女にはとても感謝しています。親が両方元気なうちに結婚したほうがいいと妹にはよく言っていましたが、妹が他の人のものになったようで、少し寂しいです。でも、だんな様になった人はいい人のようなのできっと幸せにしてくれるでしょう。
結婚式は東京の築地の鉄砲洲神社で7月12日の暑い日にありました。神式の結婚式に出席したのは初めてでした。私も着物を着せてもらって、暑い中、神聖な神前の三々九度であげる結婚式に正装した家族と共に参列しました。その後衣装換えをして、レセプションの夕食に参加、最後のだんな様のお父さんの指揮での三三七拍子が印象的でした。
その一週間後にうちの実家の広島で半べえ という料亭に親戚と隣人を招いて結婚の披露宴が行われました。私の披露宴は両親が全部決めて、私たちは帰省して、出席しただけでしたが、妹と高橋さんは自分達で、全部決めました。出席者への招待状、席決めや引き出物や料理など東京と広島を行き来しながら親と料亭と打ち合わせしたりと、準備はとても大変そうでした。 このとき、冗談でもし司会がいるならしてもいいと言ったら、披露宴の前日に頼まれて、初めての司会をすることになりました。初めてなので、スケジュールと進行役のせりふを新郎がその日の朝までに用意してくれました。もう少し時間があったら自分の言葉に直して練習してから司会が出来たのにと思いますが、いつも人前ではあがってしまう私には考える時間や心臓がどきどきする暇が無かった方が良かったのかもしれません。この披露宴は開会の言葉から始まって、詩吟やクラッシクの生演奏もありとてもユニークなものでした。私の下手な司会意外は、この披露宴は大成功だったと思います。高橋夫人になった妹の幸せを祈ります。

広島の披露宴の写真へのリンク

2008年7月3日木曜日

ミステリーショッパー

ミステリーショッパーと言うとかっこいいですが、日本の知り合いに説明すると、日本ではモニターというのがわかりました。 簡単に説明すると、指定された店に行って、そこの店員が親切か、店がきれいかなど、買い物客になって調べて報告するというマーケティングの調査の仕事です。お金儲けになると思われるかもしれませんが、これは一仕事あたりたった14ドルから30ドルくらいで小遣いくらいにしかならないのです。私は、どうせ買い物に行くので、買ったものが少し安くなってサービスも良くなるかもしれないと思って興味本位でやってみることにしました。
はじめたきっかけは、うちに仕事関係で来た人がミステリーショッパーの会社から派遣されて来たのを聞いて、インターネットを中心にした会社であるが、実際にこの会社を通じて仕事をしている人がいることから、登録してみることにしました。それから登録を受諾されるのに少しかかって最初の仕事は遠くで難しいものの依頼が電子メールできたのでやってみることにしました。まず仕事の前日、その会社のウェブサイトで何ページもある仕事の詳細を学んだ後、復習テストをして、全部正しい答えを入力後、やっと、仕事の場所と調べる内容の質問用紙を印刷しての2時間もかかる準備をしました。当日、車で20分行ったところにあるフェリー乗り場から車ごとフェリーに乗って30分かかるVashon島に到着後、10分運転しての指定されたスーパーマーケットに着きました。まず調べる内容を復習してから、買い物客に混じって、内密の調査の後用紙に記入しました。その後、その店のマネージャーに会ってその店の親会社から派遣されたと依頼会社から印刷して見せるように支持された証書を見せてから店をそのマネージャーと店内を歩いて、冷蔵庫や冷凍庫の温度を記入したりその他の用紙にある質問や見回りをした後、マネージャーからサインを用紙にしてもらうというものでした。
店に入ってマネージャーに会うまでは緊張しましたが、なんとか全部の項目を終えて、デジタルカメラで必要な写真を撮った後、帰路に着きました。その日のうちに集めたデータを依頼外車のウェブサイトから入れて、写真とレシートをスキャンしてからアップロードしてやっと仕事が終了しました。時間のかかる仕事の割には払ってくれる金額はフェリーやガソリン代も含めてたった50ドルという金額でしたが、これはテストだと思ってやりました。そのおかげで次からの依頼は内密の調査でとても簡単でした。これまでやった仕事は、スーパーマーケットのチェーン店に行って、その店の清潔感の調査と店員の態度を調査するもの、そのライバル店に行って、指定された商品の値段を調べてくるもの、携帯電話を売っている店で、プリペイド携帯電話の販売調査等をやってみました。マーケティングの経験の無い私はいい経験になりました。先日2日で3つやった上に自分の用事も重なって四苦八苦してこなしました。今後は少しずつ面白そうなものだけを時間がある時にやろうと決めました。

2008年6月25日水曜日

Marieのお葬式



先日、夫の親友のお母さんのお葬式に家族で出席しました。
私が彼女に初めて会ったのは結婚してから何年かたったころで、15年くらい前です。彼女はもう60歳過ぎでしたが、品のいい女性で微笑を絶やさない人でした。Marie は長年の喫煙がたたって、肺の機能が落ちて呼吸困難になってから、肺がんがあっという間に進行して病院に入院して1週間、孫を含んだ家族一同に囲まれて79歳の一生を終えました。
カトリックの教会で、彼女の棺が彼女の息子たちによって運ばれて来てから儀式は行われました。歌と聖書の購読を中心とした葬儀でしたが、彼女の友人や家族だけではなく、私たちのように、息子の友人たちも含めて彼女の一生に触れる機会があったたくさんの人が参列しました。葬儀の後、レセプションがヨットクラブでありました。そこでは出席者が彼女の思い出を語りました。Marieは会った人には誰にでも微笑んで、Please meeting  youと挨拶をしたという話にうなずきました。刺青を腕にした若者に手を貸されて、彼女は、お礼をいってからWho made you such a good boy? と尋ねると、その若者は彼女に心を開いて身の上話をしたということも聞きました。そのレセプションでは彼女の子供時代から始まって若いころ、晩年の写真が、たくさん展示されていました。彼女はとても美人で、帽子のモデルの仕事をしたこともあるそうです。そのときの写真を掲載させてもらいました。レセプションの写真と友人の話からMarieは多くの人たちに送られて幸せな79歳の生涯を送ったであろうことがわかりました。
日本では年取った人が亡くなった際は、最近の写真のみを仏前に喪服で飾るようですが、こちらでは死亡記事の写真なども、若いころの写真が多く掲載されています。一番生き生きとしていたころの写真の方が年取ってしわが増えたり病気で衰えてからのものよりもいいでしょう。私が死んだら、若くて生き生きしていた時の写真を飾ってほしいと思いました。

2008年4月22日火曜日

宮城道雄の弟子の日本琴の先生


先日、宮城道雄の教え子だったという85歳になる日本琴の先生の家を訪ねる機会がありました。
高村国子先生に最初に会ったのは、日本語学校でひな祭りの行事で、先生が桜や春の海を演奏された時です。(
写真参照。)琴の生演奏を聞いたのはこの時が初めてでした。近所の日本人のシアトルに50年くらい居住されている友人の川原さんが、その先生の運転手でまた日本琴の生徒でもあると聞いていたのですが、Kent市に住んでいる友人が昔日本琴を習ったことがあるというのを聞いて、私が仲介役になって川原さんに頼んでその友人と共に先生の家に訪ねて行くことになりました。私は興味津々でついていきました。その先生の家は私の家からたった5分くらいのところにありました。ドアをノックすると、小柄なとても85歳には見えない先生が出で来られて、地下の琴を教えるところへ案内されました。ガレージドアをあけて入って行くと大きい部屋に日本琴がたくさんおいてありました。そこでいすに座って、お話を聞きました。私の友人はあの有名な宮城道雄は昔に亡くなられて直弟子も少ないと聞いていたので、最初は信じていませんでした。高村先生は60年前に芸大で音楽の勉強をされたそうで、その時の先生が宮城道雄だったそうです。8期生で、その頃は生徒は少なかく彼女のクラスは4人くらいだったそうです。友人がなぜ芸大に行って宮城道雄に習うことになのか先生に尋ねたところ、彼女が行っていた私立の女子高の先輩が芸大に行っているのを聞いて、それで芸大に行くことにしたそうです。彼女の母親は三味線は娘が習うものではないと言って習わせなかったそうですが、親に言わずに宮城道雄先生から三味線も教えていただいたと言われました。
この高村先生は50年間シアトルで日本琴を教えたということで、シアトルの日本領事館で表彰されました。85歳の今も生徒に教えているとのことです。彼女の教室になっている部屋には日本琴はたくさん(8琴くらい)ありましたが、三味線は一つだけありました。何人の生徒を教えておられるのか訪ねなかったのですが、遠くから、フェリーに乗って、長年習いに来るアメリカ人の生徒さんもおられるとのことでした。
友人は子供のとき、結構高いレベルになるまで、習ったけれど、以来何年も琴を習っていないので、また練習したいけれど、肩を痛めたので習うのを戸惑っていましたが、高村先生と話した後、日本琴もたった一月10ドルで貸し出してくれて、レッスンも都合に合わせてしてくださって、手ごろな値段でとのことで、とりあえず少しウォームアップのために琴を借りて練習してから習うことに決めたようです。
私が付き合っていた友人や知人で習った人がいたかもしれませんが、日本琴を習ったと言う人の話は今まで聞いたこと無かったと気づきました。友人と話して、彼女のお母さんが琴を嫁入り道具で持ってきたという事でしたが、彼女のお母さんの父親は政治家で、河原さんのお父さんは町の町長だったということから、日本琴は金持ちか、政治家や良い家系の人たちが娘に習わせたのではないかとその友人と話しました。今はたぶん誰でも興味があれば習えるかもしれませんけれど。
私はまったく日本琴のことなど知らず、近くで見たのは初めてでした。琴片方の端にはカバーが掛けてあって、発表会の時にはそのカバーをとるそうですが、木彫りのとても美しいものだそうです。私がもし日本にいたらの日本琴など聞くこともないかもしれないし、有名な人に琴を習った人になど会う機会は無かったことでしょう。シアトルに来て、日本に関係のあることなら何でも良く知っておられて、顔の広い川原さんに会ったおかげで貴重な経験が出来ました

参照

(1)宮城道雄の公式ホームページ http://www.miyagikai.gr.jp/index.html

(2)在シアトル日本国総領事館 イベント情報 http://www.seattle.us.emb-japan.go.jp/japanese/culture/020207_j.htm

2008年4月10日木曜日

鍵を必ず掛けて寝ましょう








先日うちに泥棒が入りました。その夜、私は疲れて、ドアの鍵をかけずに寝てしまったのです。それに加えて、夫がいつもつけたままにしておく電気も消してしまって真っ暗でした。明け方2時頃、夫が急に誰だ、何をしている。うちから出て行け。(もちろん英語:Who are you? What are you doing? Get out of my house.)と大声で叫ぶ声で起こされました。彼はたまに大声で寝言を言うのでそれかと思いましたが、私はそのとき深くは眠っていなかったのですぐ飛び起きて居間に行くと、ラップトップが2つともなくなっていました。本当に泥棒が入っていたのです。夫によると、猫が急にベッドから飛び降りたので目が覚めて、廊下を見ると人影があったので大声を出したが、夢か本当かわからなかったとのことでした。夫はまだ寝ぼけていたので、残念ながら泥棒をおいかけることができませんでした。私が、外に行こうとしたら、夫から外に出ずにじっとして言われて、眼鏡かコンタクトがないとまったく何も見えないし、仕方なく警察に通報することにしました。警察に泥棒に入られたと電話してからたった10分くらいでパトロールカーが到着しました。私は外に出てみると、普段あけていない塀の戸が開いていたのに気づきました。その後、警察犬も来て、警察官の一人が泥棒が盗んだカメラを家の前に落として言ったと知らせてくれました。そのカメラを犬に嗅がせて、追跡したところ、2ブロックで臭いが消えてしまったとのことでした。
幸運にも盗まれたのはラップトップと息子のカメラ(夫のカメラが見つかったもの)だけでした。テーブルの上にあった財布やクレジットカードや携帯電話等も盗まれませんでした。泥棒にとっては不運なことに、盗まれたラップトップの2とも完璧なものでは無く、売ることはできないと思います。一つには問題があってスピードが落ちていて、全部文書や写真は他のハードドライブに移して保管していました。このラップトップはフォーマットしてオペレーティングシステムをインストールする予定でした。息子たちのもう一つのラップトップを私が使っていたのですが、それも一度壊れて修理に出して、マザーボードを入れかえた際、スイッチの場所が変わって、電源のしるしのあるところを押しても、電源はつかないのです。泥棒はお金になるいいコンピュータを盗まなかったので、がっかりしたことでしょう。盗まれて一番悔やまれるのは、息子のラップトップにアップロードしてあった新しい写真です。
次の日、泥棒の逃げた形跡をたどってみると、隣から塀のドアを開けて裏庭から入ってきて、うらのドアから入り込んできたようです。盗まれたラップトップのあるところに見慣れない侵入者を見て、普段そこに座っているおとなしい猫が声を出したので、私たちのベッドで寝ていた母猫が警戒して飛び降りたのではないかとうちの夫と推測しています。この猫おかげで、泥棒は他のものは何も盗らず、あわてて逃げ出し、カメラを落としたようです。また裏庭から飛び降りて転んだような形跡もありました。泥棒は、凶器を持って襲い掛かってこなくて良かったです。
家に訪ねてきたセールスにドアを開けて、縛り付けられて殴りつけられてから物を盗まれた人がいるという話を聞いて、私たちは幸運だったと思いました。セールスといえば、泥棒の入る数日前に誰かドアをノックしましたが息子にドアを開けないよう言ったのを覚えています。近所の人はこのセールスが家の中に何があるか下見してから泥棒に入ったのではないかと憶測していました
近所の人に同じ事が無い様、両隣と向かいの近所の人に夜は鍵を絶対かけて寝るよう私は恥ずかしながら泥棒のことを話しました。隣の奥さんはたまに裏のドアの鍵をかけ忘れて寝るといっていましたが、今度から必ずかけるといっていました。
うちの家は危ない地域にあると思われるかもしれませんが、実はこのあたりは、治安はけっこういいところで、夜でも散歩をしても大丈夫です。うちの家は小さく古くて質素ですが、近所の家は新しくて大きい物が多く、湖の景色がいいので結構高い値段で売れています。高級な家が多いので、このあたりの家にはいいものがあると思って泥棒が入るのでしょうか。最近、この近所で結構、盗難事件が起こっています。
この事件で学んだ何ことは犯罪は暗いところで起こる、田舎ではドアに鍵を掛けなくでも安全かもしれないけれど、都会では必ず鍵を掛けないといけない、シアトルは安全だとはいうけれども、日本とはちがいアメリカなので、麻薬密売人などもその辺にいるかも知れないので、もっと気をつけなければならない、ということです。

うちの家族はこの後、いつもドアに鍵を掛けて、また、ラップトップは窓から見えない場所に寝る前において、明かりを一つはつけて寝るようになりました。